信頼出来るのは主ただお一人のみ

やっぱり人との信頼関係は難しいですね。表面はとても良くても、中身は意外とショックを受ける事がしばしばあります。この頃、教会関係でも起きています。(どこの教会も一緒ですけど)牧師だろうと信徒だろうと信仰において一番大切なところを気づかなかったり、ある意味どうでも良かったり・・・。だから、同じ兄弟姉妹でも主を見上げる事を忘れて、人の嫌なところを見てつまずくケースは殆どのようです。私も教団についてある部分では嫌だなぁ…と思うこともあります。教会とは罪人の群れなのでこうゆうことが起こる事は当たり前です。しかし、教会とはイエス様の体をあらわしているのですから、どんなことがあってもまずは主に祈るのが大切だと思います。私達一人一人の心の訓練の場であり、同じ兄弟姉妹と一緒に祈り、信仰について交わる場です。教会へ出席する事は主の大きな祝福もあり、自宅では出来ないことが沢山あるからなのです。聖書の正しい解説や聖餐式、同じ信徒との交わり、奉仕活動など自宅では出来ません。例え、中には利害関係であっても、その人のために祈ることが大事です。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。…」とはっきりおっしゃられているからです。後は、その人達とは自然に避ければ良いと思います。しかし、それらを実行出来なないまま、つまずいた信徒達の多くは教会に行きたくないか、他の違う教団へ転籍しまうことも少なくはありません。私はこれらの様子を知ってとても残念です。やっぱり、同じ兄弟姉妹でも普段は自宅で聖書朗読や祈りをやらない人が多いのでしょうか?自分達がつまずく前に何故、まずは主に祈りながら相談しないんだろう?もしくは、主の前を忘れてすぐ特定の人に相談を持ちかけるなど…それでは信仰生活の意味が無くなると思うのです。

もう私達人間は本当に無力なのです。教会で起きてしまったことや、世間の職場や地域、医療・福祉の世界などでも何かあった時、人間同士では助けられないものも多いです。人は限界もあり、平気で嘘をつくし、裏切ります。また、人の考えや意見、立場もそれぞれなので、正しい基準も作れません。だから、主の助けが必要なのです。少しでも問題が起こったら、すぐに人間の牧師や同じ信徒達に相談してはいけません。私はどんな些細なことでもまずは主を第一に祈って相談をするようにしています。その結果、問題の大小や時によってはすぐ解決するものや、時間のかかるものもあります。しかし、それはすべて主の御手にあるからです。私は教会や人がどうのこうのというより、父と子と聖霊なる主は一番正しいので信頼しています。ただ、まっすぐ主の御霊によって導かれた聖書をしっかり学んで行けば絶対に聖霊が働いて、もっと主との信頼関係が深くなるのです。そうすれば、人とのつまずきも起こるはずは無いと思うのです。

ところで、私には望んでいることが一つあります。世の友達ではなく、私と同じ信仰を持つ同じ教団や身内以外の友達が一人だけ欲しいのです。この日本でクリスチャン人口1%しかないない中(その中でも教会に出席している人はもっとさらに少ない。)かなり難しいと思えます。しかし、私は過去より何度も外でクリスチャンに合っているのです。未信者だった私には、不思議とクリスチャンに縁がありました。まずは、小学校高学年時に心優しいクリスチャンの家庭教師に出会い、高校時代にはアメリカ人ハーフの熱心なプロテスタント系クリスチャンの同級生にも出会っています。ちなみに、高校の創立者もクリスチャンでした。さらに、5年間勤めていたサービス業界にも独身を貫いた礼儀正しい品のある女性嘱託社員の方がいました。その方もクリスチャンであり、保育士の資格を持ち、職場に託児所コーナーを設けた時、お客様より預かっていた子供達のお世話がとても上手でした。その後も、佐川物流バイト先では社員の中に一人、毎日十字架を身につけているクリスチャンがいました。この人から最初にお仕事を丁寧に教えてくれたり、いろいろと気にかけてくれたりしました。そして、私はクリスチャンファミリーに出会って嫁いだのです。また、おととし(2009年)3月まで就業していた派遣先でも過去に洗礼を受けて教会に通っていた経験のある上司が二人いらっしゃいました。ですから、主の御心ならば、これからも、外部から一人だけ熱心で心の通じ会えるクリスチャンの友と出会えるようにずっと気長に祈り続けています。さらに、その友の通う教会が聖書の教え(三位一体、永遠の命など)がしっかり忠実であり、証や信仰の語り合える祝された教会であることを望んでいます。そうすれば、お互いにそれぞれの教会に招待出来るし、新しい事も学べるし、良い刺激となるからです。この祈りはかなり時間がかかりそうですが、すべては主の御心に従っていきます。

本当に、未信者だった頃をそれぞれ振り返ってみると…私は自然に正しい主の元へ導かれたことに大きく驚きます。また、過去に出会ったクリスチャン達の中には真剣に私のために祈り続けてくれたかもしれません。つまり、私には信仰の種が入ってということかもしれません。やはりどこに行っても、きちんと自ら証をして主に祈る事はとても大切な事だとつくづく思います。ですから、今の教会関係では主の御前でもっとなおさら信頼という証の場が欲しいです。

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