主の導かれたもの、そうではないもの

主の導かれたもの(場所)の区別は意外と気付きにくいことがほとんどです。でも、気づくようにするには、やはり毎日のデボーション(聖書朗読&祈り)次第だと思います。つまり、常に主ともにいる意識や信頼関係をもたなければなりません。これがなければ、主に導かれたという意識は感じなくなり、かえって自分でものごと判断して大きな失敗を招くことは本当です。一番良い例は職場選びですね。

私はおととしリーマンショックの影響で派遣切れに合いました。長期で高条件・高収入だった派遣先でしたので残念…。でも交通の面では、朝はバスに乗って最寄りの西武池袋線清瀬駅まで行き、清瀬から有楽町線新富町までダイヤが頻繁に乱れながら通勤してきました。新富町から会社までは徒歩15分、就業時間は今のフルパートと同じ8時間勤務であり、一日の往復を考えるおよそ16時間です。1日の半分は仕事関係であり、さすがに夫と義理両親達は私の健康を気遣っていました。実際、私は2度体調を崩しました。

失業後はしばらく休養をとり、その後はハロワで失業給付を貰いながら就職活動と簿記の資格にチャレンジしました。でも、一時は高条件の派遣先が満了してからの空虚感と、夫と次の仕事について口論、簿記検定失敗などで鬱になりそうな状態になりました。しかし、ちょうど同じ時期に私は洗礼を受けたので毎日主に悩みを打ち明けて祈り続けてきました。『主よ、どうぞ、家のそばであり、人間関係の悩まない、土日祝日休みのふさわしい職場をお与えください…。』そして7カ月後、今のパート先に決定しました。時給やお給料面はさておいておき、主に祈った通りの職場でした。

私が土日休みをこだわるのは日曜礼拝や聖書勉強会を守る為です。受洗後、主を第一に求めるものはとても祈りが聞かれやすくなります。逆に、主を求めずに自力で高収入の仕事を選ぶ方法は必ず失敗します。入ってからも、仕事はかなりハードで人間関係最悪だったら何もなりません。お金のために、ここで我慢し続けて勤務したら後で大きな病気になって入院費用で消えるか、大金を残したまま過労死だなんて本当に愚かなことです。ただ、目的も無くてお金を残す人生は本当に空しいと思います。

私の周囲では、お金を選んで大病した人が身近にいます。また、洗礼受ける前に自力で選んだ職場で酷い経営者に悩まされている人もいます。また、ある人は主を拒否したために、高条件に近い再就職先の内定が突如取り消されて未だに求職中の人もいます。主は、これらの姿を信仰生活の浅い私に見せてくれました。私はこれらの姿を見てつまずくどころか、主の懲らしめの恐ろしさを知り事が出来ました。主は、私達一人一人にあった正しい道(ご計画)をお与えになられているのに、それを無視や拒否することはいけないのです。

私は、主に出会った限りはこれかれもずっと御心に従っていきます。主の導かれたもの(場所)には沢山の祝福があるからです。義理両親が見つけた現在住んでいる家も長い祈りによって主に導かれた家です。以前住んでいた家の周辺は非常に環境が悪く、義理両親の健康も不安定な状態だったのですが、現在の家は自宅から車に乗れば教会は近いし、軽い糖尿持ちの義父と高血圧の義母にぴったりのかかりつけクリニックがすぐ近所にありますし、さらに近隣の人達も健全で比較的穏やかな人が多いです。そのため、すべてのストレスから癒されました。主に導かれるもの(場所)はやっぱり、主を正しく求めている人にはみなそれぞれ必要に応じてお与えになられると思うのです。一番正しい主をもっと信頼してみましょう♪

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