全能なる神様は私たちの道を正しくする

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Photo by Moyan_Brenn

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信仰の原点は旧約聖書創世記から学ぶ

今月(3月)から失業してフリーとなり、たっぷり時間も与えられています。基本、毎朝30分くらいに聖書を学んで祈ることから一日のスタートです。(なかなか順番になることは難しいことですが・・・)手持ちの聖書や聖書日課一日一章をまずどこから学ぼうかと悩んでいたら、やはり信仰の原点として旧約聖書の創世記第一章「初めに、神が天と地を創造した。・・・」からほぼ毎日始めることにしました。

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現在は創世記に登場するアブラム(のちアブラハム)

3月中旬の地点で創世記第十二章以降へ進めており、今はちょうど登場人物アブラム(のちアブラハム)の時代へ入っています。その中で、アブラムの子孫について不妊の妻サライと女奴隷ハガルとのバトルという問題に直面している箇所です。今朝は十七章1節にある「わたしは全能の神である。」から入り、アブラムが99歳になった頃の主なる神様からの啓示について学びました。

主の沈黙の理由?

手持ちの聖書日課一日一章の小宮山牧師(日本アライアンス呉教会)のメッセージによると、前章(十六章)の16節はアブラムが86歳の記事だと述べています。十六章と十七章の間で13年の歳月がとんでいることなのです。その以前の章では75歳から86歳の11年間について記されているのに、今回はこの13年の空白期間が異常であるとのこと。新約聖書へブル一章1節で「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、・・・」と示されているように、聖書が主の啓示の書であることを考えると、この13年間は主がアブラムに全く語られなかったのだと考えなくてはならないそうです。
この部分は私も全く気が付きませんでした。もし、主は語らなかったら、アブラムの存在は記録にとどめる意味がないのだと示されているのです。新約聖書ローマ人十章に記されている通り[su_highlight background=”#ecff99″]”信仰は聞くことから始まる”[/su_highlight]のだと。もし、主が語って下さらないなら私たちの信仰はあり得ないと小宮山牧師のメッセージで記されています。

さらに、なぜ主はアブラムに語られるのをやめたのでしょうか?メッセージによると、考えられることは前章(創世記十五章)でみた、主の御言葉の力を信じないで人間的手段をとったことのためでした。主は決してアブラムをお見捨てになったわけではなく、13年間の主の沈黙は”アブラムに、主が手を引かれたら一切が空しくなることを徹底して教えるためではなかったか”と思われています。アブラムのように、私自身も含めて人は正しい神様を忘れて何でも自分の力で行動しようとすることがほとんだと思います。人は何かが起こると焦って、自分で何とかやってしまい、結局失敗で終わる。特に、私は就職活動や在職中の時でも自分自身で焦って何度も同じことを失敗して繰り返しています。理由はただ簡単です。主なる神様を信じても、主の御言葉の通りに行動していないことだったのです。

聖書日課一日一章のもう一人の唄野先生(堺大浜キリスト教会役員)からのメッセージでも「人間的な才覚をもって主のご計画をくらました者には主は沈黙を守られたのです。」とあります。99歳で再び主の啓示をうけたアブラムのように、(妻のサライのことで)失敗しても、主のみ前を離れず、そこにとどまり続ける者は主を見捨てられませんとのこと。

聖書と先生方の両メッセージを学ぶと、神様の沈黙は信仰の成長だとよくわかりました。99歳のアブラムは最終的に主の大きな祝福を受け、名前も”アブラハム”として、妻のサライも”サラ”という名を与えられてようやく子宝を授かることが出来たのですから、神様は本当に慈愛深いお方であることを実感します。今の時代に生きている私たちのあらゆる失敗もずっと主は沈黙をもってご覧になられ、自然に主を顧みるようにして下さっているように感じます。信仰をもつと、今日の学んだことを気付くことが出来て感謝です。神様は私たちの失敗を通して道を正しくして下さるということ、つまりこれこそ全て主のご計画であることだとわかります。新約の恵みの時代に生きている私たちには、全ての人類の罪を贖って下さった救い主イエス・キリスト様という正しいお方とともにいて幸いだと思います。

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正しい人

今朝、創世記を学んだ後、さらに義母から西日本ルーテルの某牧師によるわかりやすい素晴らしいメッセージをすすめてくれました。このメッセージは、義母も私も日本語の「ただしい」という深い意味と信仰の結びつきについて目から鱗でした。

ただしい人

日本語の「ただしい」には二つの漢字があてられます。「正」は、国や城をあらわす「一」と進軍をあらわす「止」の合成です。敵を倒し、ただすことをあらわします。イエス様は、まことの神であるお方です。イエス様の十字架と復活は、誰一人としてかつことができない罪と死に勝利された神様の力です。
常用漢字表にはありませんが「義しい(ただしい)」という字もあります。いけにえの羊が、のこぎりで「我」に斬られることをあらわしている説があります。イエス様はまことに人となられ、私たちの罪を取り除くために、身代わりとなって十字架にご自身を献げられた≪神の子羊≫(ヨハネ一章29)です。ここに、罪人をも愛し抜かれる神様の愛があります。
≪本当に、この人は正しい人≫。百人隊長のように私たちも告白しましょう。神様の力と愛、イエス様の十字架に感謝しましょう。イエス様のただしさによって、私たちはただしくされ、きよい神様の御前に進み出る道が開かれたのです。(2016年3/19(土)ルーテル聖書日課より引用)

以上、今日のように聖書について私はこんなに文章で語ったことがあっただろうか?正直、記憶にありません。しかし、クリスチャンとして日々の聖書を学ぶことはとても人生にヒントが沢山隠されていると思った瞬間でした。私にとって信頼あるお方はもちろん正しい人[su_highlight background=”#ecff99″]”主イエス・キリスト様、まことなる神様”[/su_highlight]だけです!

その買うを、もっとハッピーに。|ハピタス

最後まで読んで下さりありがとうございました。
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