昨年2009年4月12日のイースター礼拝にて、洗礼を受けて間もない頃はまだ自分が生まれ変わったという実感がありませんでした。しかし、それでもめげずに朝晩のデボーションと何度も聖書を読み、月1~2回の小教理問答書の勉強会に参加したりして、同年の12月のクリスマス礼拝に堅信式を受けました。この時は何だか洗礼式より緊張感もなく、聖霊に満たされた気分になっていました。私の通うルーテル教団では洗礼受けてもすぐには聖餐式には出られず、堅信式を受けてから初めて聖餐会員となってイエス様の杯(パンとぶどう酒)を受けることが可能なんです。
その後今では、特に変わったことといえば・・・心と物事の見方です。世間では神社仏閣、パワーストーン、風水などで自分の幸せのために願うご利益とは全く異なり、キリスト教の場合は一生「聖書」と「祈り」「恵み」によって少しずつ変えられていくものです。私の場合は物欲(お金の無駄遣いや世間の噂やおかしな流行に惑わされなくなった)が以前より抑えられたこと、会社の飲み会など興味が薄れたことです。さらに困っている人や恨んでいた両親、利害関係者達のために主に祈れるようになれたことです。これが以前の私だったら、なかなか他人のために祈ることは出来ませんでした。もちろん、人間の力で無理におしつけて他人を変えるなど不可能ですが、祈ることなら出来ます。今は本当に主に祈ることが大きな恵みだと実感しています。
私は夫を通して主なるイエス様に出会えことが一番何よりもうれしいです。また、私は裕福な家庭育ちではなくて貧乏でよかったと思います。もし、裕福な家庭だったら、信仰なんて必要ありません。私はお金持ちになりたいとは望まず、最低限の衣食住が出来るだけで十分だと思っています。今はまさに、年金生活の義理両親と稼ぎの少ない私達夫婦で同じ一軒家に住んでいますがまだ子供もいないし生活は特に困っていません。だから、この生活で満足しているし、日ごとの糧が主より与えられて感謝です。まだまだ自分を捨てることは難しいのですが、これからも裕福でなくても主におささげする十一献金と夫を心より愛し、人をもてなすことを心からよろこんで出来るようになりたいです。これこそ真の自由なのかな・・・と思います。