松山藩の秋山兄弟について感じたこと

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)坂の上の雲〈2〉 (文春文庫)坂の上の雲〈3〉 (文春文庫)

NHK大河ドラマの龍馬伝が終了してから、今年も坂の上の雲(第二部)がすでに放送されましたね。今度は『日英同盟』『子規、逝く』『日露戦争』など…。TVを全く観ない私ですが、ネットではきちんと公式サイトや番組情報、Twitterなどで沢山紹介されいるので何となく分かります。坂の上の雲(第一部)は昨年、実際に観ていましたが秋山兄弟のお話はなかなか興味深いものがあります。特に秋山兄弟の少年時代~学生時代についてのおかれた生活環境や過ごし方には大変見直されました。これは、私が幼少期時代と今の子供たちや若い人たちと比較すれば、私達いかに今の世に恵まれているのか…と考えさせらてしまいます。クリスチャンになった私自身が感じた事は以下通りです。たいした内容ではありませんがご容赦くださいね(^^;)・・・。

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兄・秋山好古

秋山氏家系は松山藩の御徒士だったそうですが、260年続いた幕藩体制が崩壊し、松山藩の財政はかなり底をつき、藩士の生活は困窮していました。大勢の子どもたちをかかえている秋山氏にとってはこれからの養育費について大変苦しい状況に追いやられました。そこで、父・久敬は5人目の男児が生まれた時は「寺へやるしかない」と言いました。しかし、まだ10歳だった兄・信三郎好古(のち秋山好古)は強く止めました。

「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」

まだ当時少年の上記言葉は、あまりにも謙虚で今の私達からでは考えられません。クリスチャンでもこれに近い言葉を言える人は少ないかもしれませんよね。昔の人達は、大勢の家族のため、他人のために働く気持ちは当時の教育背景にあったのでしょうか…。秋山兄弟の両親はとても温厚でのびのびとしたイメージがあるので、強くてきちんと判断力があった良い子供に育つわけですね。これが、逆に両親が厳し過ぎたり、甘やかし過ぎたりしてもダメなんですね。

信三郎が16歳になると、家計を助ける為に銭湯の風呂釜焚きや番台をやって日銭を稼ぎました。今でいえばアルバイトような感じでしょうか?信三郎は中学校に行く費用はないけれど、何とかしていつかは学校に行きたい思いがあり、毎日かかさず福沢諭吉の『学問のすすめ』書物を稼ぎの合間に読書に励んでいたそうです。(ただで学べる学校は無いだろうか…。)この諦めない気持ちは、主を求める信仰も同じだと思います。つまり、信仰は何度も言うように忍耐と謙虚さですが、クリスチャンである私も含めてなかなか難しいものです。

やがて、好古のただで学校に行きたい思いが叶ったようにすぐにチャンスが訪れます。大阪にただで学べる学校が出来たいう話が飛び込んで来たのです。これからは学問で身を立てる時代になっていました。明治政府は国家のために多くの国民に学問を身につけさせようと大いにすすめたからです。大阪では、ただの学校であった師範学校(教師養成学校)を実際に設立したものの、教師の人材不足が深刻になっていました。何故なら、大阪は商人の町であるので、武士は地方中心に分散していたためにこの町には少なかったのです。好古は迷わず即座に父・久敬に願い出ます。しかし、師範学校は19歳からの年齢制限がありました。元徒士目付筆頭職と元教師であった父の適切なアドバイスを受け、年齢を待つまでは大阪の小学校の採用試験を受けて「五等助教」として就職することになりました。(この頃の小学校もかなりの教師不足だったそうでした。)そして、まだ18歳にも関わらず1年ごまかして、念願の師範学校試験受けて見事に合格して入学しました。当時の師範学校の制度と教育内容があやふや体制だったのでラッキーだったのです。好古は師範学校をクリアしてから正式に愛知県立名古屋師範学校付属小学校の教師就任することが出来ました。その時、この小学校を大歓迎してくれた同じ松山出身の和久正辰という30代に近い先輩に出会います。和久とは松山では名の知れた秀才で、主事でありました。しかし、まだ若い好古にもっとお給料も良くて早く出世が出来る別の道が一つあると導きました。「月謝だけでなく生活費はただで、小遣いまでくれる学校がある」とすすめられて、新たに陸軍士官学校に入校しました。

それから、教師時代よりも多くお給料貰いました自分自身は普段は質素の生活をしていたそうです。(大のお風呂嫌いでアル中を除けば…)プライベートでは旧旗本・佐久間家御姫様(佐久間多美)とお見合い結婚するのみで、恋愛・異性関係、容姿等には全く興味がありませんでした。多くの得たお金は家族の為に生活費を送ったり、陸軍の部下のために使用していました。同時に出世も陸軍大将や司令官の重役になって部下を指導したり、日清戦争と日露戦争で大きな役目を果たすことが出来ましたが、晩年は退役陸軍大将の仕事としては全くの異例である北予中学校(現在の松山北高校)に就任してからは生徒達には日清・日露戦争のことは一切口にしなかったそうです。

好古はクリスチャンではありませんでしたが、聖書の戒めからみてみると、お金の執着をせずに人のため使い、いっさい姦淫せず、自分を誇っていないのですから、これらは多くのうわべだけの牧師やクリスチャンにはそうなって欲しいと思いました。

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弟・秋山真之

5人目の子供であり、弟である淳五郎(のち秋山真之)は少年になった時は近所評判のガキ大将となっていました。近所の子供たちを集めて戦争ごっこをしたり、ある時はとんでもないことに自分で作った花火を打つ上げる大事件を起こしました。これには母・貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いたそうです。その他には絵や文才もあり、水泳、かけっこも得意でした。その当時からは正岡子規とは幼馴染だったようです。

数年後、真之は兄・好古の仕送りによって松山中学に入学しましたが、途中で多くの生徒達や子規まで中学を中退して大学予備門めざして上京してしまいます。地元に取り残された真之も、子規の刺激を受けて文学の道へめざそうと上京する決意を表しました。幸いに兄・好古の援助と呼び出しによって上京が叶いました。旧旗本の佐久間家に下宿中の好古と再会して共同生活をします。好古は面倒を見ましたが、可愛がる形ではなく厳しく躾ける毎日でした。兄は贅沢を嫌い、非常に質素な生活を望んでいたからです。

⇒私は聖書のこの御言葉を思い出しました。

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人13:5)

⇒さあ、ではどんな厳しい兄だったのでしょう・・・。特に記された例です。↓

(例1)食事の際のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。

(例2)実家松山の母が真之に東京は寒いだろうと思って綿の入った足袋を送ってくれても、好古は「贅沢だ」といって脱がせられ、ある雪の日、真広が玄関でモタモタしていると、好古が出てきて、「何しとるんぞ」真之「下駄の鼻緒が切れているから直しているんです」好古「下駄の鼻緒を直している暇があるなら裸足で行け」と怒鳴ります。

(例3)他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。

ああ~あまりにも厳しすぎます(´Д`)それでも、真之は反発せずに一番お世話になっている実のお兄様を深く尊敬出来るところは素晴らしいです。何故なら、両親が経済的に支え切れなかったところを好古は本当の親代わりとして中学時代の学費から全部援助してきたのですから、頭が上がりようがないでしょう。また、兄が非常に怖かったのかもしれません。ここで聖書的に感じた事は、主を畏れて両親を敬うこととよく似ているように見えます。どんなひどい親であろうと憎まなように、真之は厳しすぎる兄に対しても決して憎まなかったようにもみえます。しかし、この兄弟の背景からみると厳しさの裏には愛情が感じられます。好古は弟の真之に対して子供の頃のガキ大将のままにしなように将来の心構えについて訓練させて立派にさせたかったのではないでしょうか。

その後、真之は頭脳明晰(めいせき)で正岡子規と同じく大学予備門に進学しましたが、海軍に入ることを決意して退学することになりました。根本は経済的理由があり、今まで兄・好古に学費を頼り続けた申し訳なさもあったからです。しかし、海軍兵学校に行けば、兄との質素な居候生活からガラッと変わり、食事も当時ライスカレーが出たほど贅沢だったようですね。また、広瀬武夫という真之と同い年でありながら2期先輩であり、良きライバルであり、新しい親友として出会います。真之は大学予備門の時と同じく海軍兵学校でも優秀でした。真之のように大した勉学に励んでいるわけでなかったのに、成績もよければ運動能力も抜群という人はどこの小学・中学・高時代にいました。やはり神様から与えられた生まれ付きの才能なのでしょうか?私もその人をみて羨ましかったですが、今は信仰が与えられているので才能で悩むよりも、主に「私に何が出来るのでしょうか?私にふさわしい使命をお与えください。」と毎日そのように祈っています。ですから、全てには主の御計画と時があることで焦ったりはしなくなりました。

真之は海軍兵学校を首席で卒業した後は、軍人になり、日清戦争で参戦した後は渡米します。アルフレッド・セイヤー・マハンという海軍大学校校長であり、軍事思想家に師事を受けながら、これから日露戦争に向けての戦略方法を大学図書館を利用して理論研究に努めたそうです。今度はイギリス駐在となっては視察をしてから日本に帰国します。陸軍にいる兄・好古と同じようにもっとさらに出世していきました。日露戦争開始前には稲生李子と結婚します。最終階級は海軍中将でしたが、晩年は病に悩まされて意外と49歳という短い生涯だっとことには驚きました。一方、もともとアル中で粗食家の兄・好古の方は71歳まで生きていたそうですね。

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総合的に思うこと・・・

二人の兄弟は日本国激動の時代に生まれて波乱な生涯だったと思いますが、その家族も大変だったと思います。好古の妻・多美と真之の妻・李子は、夫がそれぞれ戦場に行ったりしてほとんど留守をしているので妻たちは寂しい気持ちはあったのかな~と思います。この当時は、恋愛とかそういったものよりも、家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績が重要だったのですね。これも聖書でいえば箴言31章10節から最後の箇所を思い出します。しかし、昔と現代では大きく時代が異なりますし、女性の立場が男性化して逆転しています。逆に男性は女性化してしまい、もう秋山兄弟のような性質を持つ人達はもういないでしょう・・・。しかし、秋山兄弟は決してクリスチャンではありませんが、昔の人達の方が何事にも忠実で行い、どんな苦労も忍耐しながら、謙虚で謙遜に生きていたように思えます。でも、あの当時仮に秋山兄弟が聖書を知ってクリスチャンに改心していたならば、どうなっていことでしょう?私は二人の兄弟なら、主のためにそれぞれの賜物で大きな働きをしていただろうと思ったりしました。また、もっと日本も変わっていたかもしれませんね。

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