今朝の聖書日課はバベルの塔についてです。バベルの塔読んでみて、人間の罪深さや信仰の大切さを気づかされました。
聖書 : 創世記11:1-9
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
メッセージ : バベルの塔
バベルとはヘブライ語でバビロンのことです。また「シンアルの地」は、ニムロドの伝説によると、世界で最初の王国が建設された場所です(創10:10)。そこは、チグリス川とユーフラテス川の流域平野が広がるメソポタミア南部の地域のことで、バビロンを中心とするバビロニア帝国の本拠地でした。そして、バビロニアの大都市の中央に建設された神殿には、必ず「ジグラト」と呼ばれる高い塔が併設されていました。
聖書の物語によると、バビロニア人が《天まで届く》高い塔を建設しようとしたのは、シンアルの平野に住み着いた人々が離散しないように、自分たちの名声を高めるためでした。その名声の下に人々を統合することを目指した彼らの傲慢は、天の王に代わって支配しようとする、神への反逆にほかなりません。神がその野心を阻止して人々を散らされたので、バベルの塔は廃墟となりました。世界各地の人々がそれぞれの言語を持っていることは、天にまで届こうとした人間に対して神が下した罰であり、そこから国々は互いに対立する混乱が起こった、というのです。
六本木の某ルーテル教会牧師より
以上
いつも通う教会は、土曜は英語礼拝、日曜は日本語礼拝となっており、いずれも好きな礼拝に参加することが出来ます。私の場合は義理両親と親族共に日曜礼拝がメインですが、過去に一度だけ土曜礼拝に出席したことがあります。ちなみに、私はあまり英語が話せませんが、聖書や説教の中ではいくつか知っている英単語もあるし、英語の賛美歌の中でも知っている歌がいくつかあります。英語は得意ではないけど、英語による礼拝はとても興味があり、賛美歌も日本語より英語歌詞の方が実は大好きです♪土曜礼拝は外国人向けだけではなく、日本人でも英語好きな方や英語を話せる方はメインで出席しています。しかし、土曜礼拝の時間は夜7:00からなので時間的に遅く、出席人数は日曜礼拝と比べて半分位です。私個人としては、たまに英語礼拝へ出席したいし、土曜メンバーには、会いたい兄弟姉妹達もいるのです。でも、東京都東久留米市にある教会まで、自宅から自転車、もしくは、バス・電車で通うことは可能なのですが、中途半端な距離の上に夜の道は危険だし、私の夫は反対しています。夫ですが、元々若い頃から洗礼も受けているし、海外経験豊富なのだから反対する意味なんて本来はあり得ません。でも、彼自身信仰は少し残っているけど、完全に教会の礼拝から離れてしまっている状況…。もし、夫が教会に出席出来るようになれば、一緒に土曜礼拝にも出席出来たはずなのに…。今、とても残念な思いです。
しかし、日曜礼拝の方が神様からの祝福を大きく頂けると義母は言っていました。週の七日目は天地万物を創られた神様の安息日であり、聖なる日とありますからそれはよいのですが、私にとっては納得出来ないこと一つあるのです。同じ教会同士でありながら、英語礼拝メンバーと日本語礼拝メンバーの区別です。これは、私達が教会員なる以前からの問題なのですが、自然にこのような形となっているのです。日曜礼拝には子供達の日曜学校があり、聖歌隊や会衆会議、お掃除などあるので活動的です。しかし、この教会での土曜礼拝の場合は礼拝だけ終わります。つまり、お客様みたいなものです。また、土曜と日曜礼拝メンバーとの交流する機会もあまり多くありません。今、教会議会の間では課題としてあげられている最中です。例えば、教会のお掃除も日曜メンバーばかりではなく、土曜メンバーもやるべきだという意見も出ています。教会とは、同じ信仰を求めている皆さんが自由に集まり、お互いに支え合う場なのですから何かに奉仕することも当たり前だと思います。伝道に関しては教会外でもいくらでも出来ることです。最近では、土曜メンバーの間でも何かをやろうという動きがようやく出てきている情報を耳にしています。
このように、土曜英語礼拝・日曜礼拝メンバーの区別が自然に出来上がってしまった要因の一つとしては、やはり言葉の壁があると思います。私自身一度の英語礼拝へ出席、他のインターナショナル系の某バブテスト教会へ出席した時は、聖書と英語の理解がさらに必要だと重く受入れました。同じ信仰を持ちながら万国共通の英語を話すことさえ出来れば、国籍・人種を問わずに誰とでも交わりの場が大きく広がるようになると思うのです。このことについては正しくスムーズであれば問題はありません。
しかし、バベル塔の通り、それぞれの異なる言語となってしまったのは人間の”傲慢”という罪からであり、言葉の壁を乗り越えるにはまずは信仰第一ではないでしょうか?教会で出会った外国人信徒と交流するための英語学習は二の次であると思います。英語などの外国語を学ぶことについては年齢いくつになっても遅くはありません。とにかく、信仰が先に大切なのです。
もし、この世の中で、一つの言葉だけだったら、世界中どうなっていたことでしょう…。同じ言葉だけの人類から独裁者があらわれて全世界を身勝手に支配してかもしれません。また、今の日本という国さえも存在しなかったことでしょう。そう思うとかえって恐ろしいような気がします。
また、教会の中においての共通語だったらどうなのでしょうか?教会へ来る人の中では信仰よりも外国からくる宣教師や信徒達と英会話をしたい日本人も少なくありません。大抵、日本の教会は信徒を増やすために英会話教室を開くところは多いです。それは良いことですが、このことについては別問題にとなるので今回はお話を控えます。さらに、日本には、インターナショナル教会も多く存在しますが、必ずしもすべてが良い教会とは限りません。各外国人宣教師の英語による説教の中では、聖書に反した内容で教えている場合もあり得ますので、中途半端に聖書と語学力を身に付いた人では危険かもしれません。海外の各教会の中でもなおさら危険です。これらの危険を思えば、私の通うルーテル系教会は変な教団ではなくて幸いです。これからも同じ教会へ通い付けます。
では、今日はここまでに致します。