白髪は輝く冠で思うこと

「あっ!また白髪だ・・・。」と、私自身が25歳過ぎてから頭上の生え際に数本の白髪が目立ち始めました。まだ大した年ではないのに、どんどん増え続けている白髪はショックです。つまり、若白髪だと思います。30代過ぎるとさらに目立ってきました。原因は、父方の遺伝もありますし、ノンクリスチャンの時は色々と精神的に重荷を背負い続けてきました。やはり、幼少期から独身時代にかけての重荷、ストレスが一番大きいと感じています。

今、その白髪をどうしているかと申し上げますと、たまに(年に2~3位)美容院でカラーリングをしているのみです。少ない収入のため、個人の自由な小遣いも厳しいので、本当ならお手頃な市販の白髪染めやヘナ、カラーリングなど自分で染めようと思うのですが…面倒だったり、失敗したり、髪も痛めてしまうし、染料剤は人体にも影響あるなどあって、普段は放りっぱなしです。白髪が嫌な自分はこんなこといって矛盾しますが、市販の染料剤を使うのはハッキリ言って面倒です。かえって、白髪予防などに良い最善の方法があればそっち方が選びます。

しかし、このマイナーな白髪は「輝く冠である。」ことを義母から初めて聞き、聖書には白髪のことについて明らかに記されていました。旧約聖書の箴言16章31節を三つの日本語翻訳を読み比べてみましょう。

白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。(新共同訳)

しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。(口語訳)

しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。(新改訳)

どちらも素晴らしい御言葉ですが、三つのうちどちらの翻訳が好きですか?私は、この御言葉なら口語訳の方が好きです。神様にあって正しく生きること、つまり、どんな試練があってもじっと耐えてまっすぐ生きること、また辛いことがあっても謙虚で精一杯に生きていることは、魂や人生を磨きあげられた輝きを増しているように思えます。

私は胃に穴が開くほど辛い時期を経験した一人ですが、神様は私自身のすべての事情をよくご存知でおられ、今の夫の結婚を通してお救い下さいました。これは神様の愛深いご配慮が感じられます。白髪は輝く冠、栄の冠、光栄の冠・・・一見、高齢者のイメージがあるのですが、霊的に解釈すれば年齢の問題ではなく、その人自身の生き方を表しているものではないかと思えます。白髪そのものですが、一本ずつ見てみると確かに冠のように輝いてみえます。(たまに金髪っぽいのもありますが。)こんな素晴らしい冠ならば、将来高齢者となった時はキレイで真っ白な品のあるヘアースタイルとなりたいですが、なかなか難しそうですね。

その買うを、もっとハッピーに。|ハピタス

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