なかなか懲りない偽善番組

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関ジャニ∞、今年の『24時間TV』メインパーソナリティー決定

オリコン 4月6日(水)12時37分配信

人気グループ・関ジャニ∞が、今年の『24時間テレビ34 愛は地球を救う』(日本テレビ系)のメインパーソナリティーを務めることが6日、わかった。東日本大震災があった今年、同番組に対する注目度が高いなか、初のメインパーソナリティーとなる関ジャニ∞。メンバーの横山裕、村上信五は、1995年の阪神・淡路大震災を経験しており、今回の抜擢には、大きな責任を感じながら大役に挑む。

「愛は地球を救う」をメインテーマに、1978年からスタートした同番組。24時間チャリティーマラソンを始め、あらゆるチャレンジ企画を実施。過去には、SMAP、TOKIO、嵐、KAT-TUN、タッキー&翼、NEWSら、同じ所属事務所のメンバーがメインパーソナリティーを務め、多くの感動を伝えてきた。

同番組が行っている『東日本大震災 緊急募金』は、4月5日(火)午前11時時点で、12万8,140件、7億8,280万5,878円 の募金が寄せられており、さらなる募金活動を呼び掛けるため、本日からテレビスポットも放送。メンバー・安田章大が手話でメッセージを届けている。

関ジャニ∞は、横山裕、渋谷すばる、村上信五、丸山隆平、安田章大、錦戸亮、大倉忠義によるグループで、2004年シングル「浪花いろは節」でCDデビュー。先ごろ東京・代々木第一体育館で、ジャニーズのタレント陣が総結集し行われた募金活動にも参加しており、そこでも「今度は僕らが(阪神・淡路の)お返しをする番」と強い決意を口にしていた。

以上

また毎年恒例、夏の風物詩24時間TVをやる予定。初代から比べればどんどん質が落ち込むこの偽善番組は、世間の批判をあびならがらもよくも懲りずに放送するなぁと呆れるばかり。偽善者といわれる大ベテランフリーアナウンサー、ただ騒いでばかりの低レベルのタレントや芸人達、有名人毎年交代の意味のないチャリティーマラソンなどは彼らがお金を貰いながら番組に出ているわけだ。これって本当にチャリティー番組なのか?この偽善番組は日本国中だけではなく、海外でも多く批評がある。しかし、この番組の視聴率を上げる為に人気ジャニーズを取り入れるところがなかなか巧妙であると感じる。かといって、ジャニーズ自体は否定していない。私はこの偽善番組を通してではなくて、人気ジャニーズ達のみが中心となったチャリティー特別番組にした方がずっと良いと思う。(ただし、お金を貰わない真のボランティアであることが条件。)若さが溢れるジャニーズ達だけ番組司会、募金呼びかけ活動、直接現地に行って支援活動をすれば、良い意味で活気が上がるだけではなくて、貧困や被災地の方々に対しての励ましが大きく伝わるのではないかと。

ところで『愛は地球を救う』という言葉、聖書の知らない日本番組企画者達はどう解釈して出来上がったのだろうか?と不思議である。この“愛”と言う真の意味は、多くの日本人は知らないし、解釈の仕方もマチマチだと思う。普通、“愛”とは恋愛とか異性に対しての気持ちやエロスの方に持っていってしまう。それは、違う!

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聖書を学んでいる視点で、“愛”とは、(人から)与えられるのではなくて、(自ら)与えるものであること。つまり、“愛”とはお互いに育てて成長したり、助け合うもの。それを知ると、偽善番組で自分達もお金を貰いながらボランティア活動をすることは絶対にありえないと思う。それは、ボランティアではなくて、世界中で困った人々を利用した、ただの自己利益による大きな詐欺にしか過ぎない。このことを既にご存知であられる主イエス様は大きく悲しんでおられるであろう。

そこで、毎日デボーションで活用する聖書日課で私がいつまでも印象に残る箇所。某ルーテル教会の牧師より以下メッセージを抜粋。

「12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

[ 13 ]

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

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愛は全てを与える

コリント人への第一の手紙の12章に記されている御言葉は、愛の賛歌とも呼ばれるほど有名な個所です。そこに記された愛の勧めは、たいへん尊いものであるどころか、並みの人間にはとうていできないほどの大いなる愛の教えであると言えます。そんな大いなる愛の教えの前に、私たちは、如何に自分が愛のない者であるかを思わされるのです。なぜ、私たちにとって愛することが難しいかというと、愛は常に「与える」ものだからではないでしょうか。

日本人の多くの人は、このことに案外気づいていないのかもしれません。というのも、「好き」よりもっと強い感情を「愛」と勘違いしている人が多いのですが、いくら好きでも、それが自分のために相手の人生をも奪うようなものであるならば、それはもはや、愛とは呼べないからなのです。愛とは、常に与えるもの。それを示してくださったのが、まさに、十字架の主、イエス・キリストであると言えます。イエス様は御自分の命を私たちに与えてくださいます。正確に言い表すならば、私たちの救いのために命を投げ出して、十字架の上で私たちの全ての罪の贖いを成し遂げてくださったのです。

《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》。私はずっとこの御言葉の中で、なぜ愛が最も大いなるものなのだろうかと思っていました。しかし、愛は与えるものであり、真実の愛は、主イエス様にしかないものであるということを知った時、その意味がようやくわかったのです。信仰と希望も確かに尊いものですが、それらも愛と同じように神から与えられ、私たちが抱くものです。

愛とは何か、いえ、愛とはどなたであるかを問うなら、その答えはイエス・キリストを置いて他にはおられません。もちろん、私たちも愛に生きようとしますが、生まれながらに自己中心な私たちの内には、真実の愛、完全な愛は見出せないばかりか、宿ることは難しいのです。しかし、イエス様のうちには、与える愛があふれるほどに存在しているのです。愛の無い私ですが、ぜひこのお方に心の内に住んでいただいて、私も愛に生きる者とならせていただきたいのです。

以上

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