ある平日、教会関連の家庭集会へ出席し、聖書を学び、祈りをし、最後に昼食で楽しい交わりがありました。今の家庭集会で学んでいる聖書とは新約聖書「ヤコブの手紙」、別名「ヤコブ書」と呼ばれています。この「ヤコブの手紙」は他の新約聖書と比べて厳しい箇所、難解な箇所も含まれ、本来は外典扱いのところ、後に正典として見直されています。
目次
新約聖書「ヤコブの手紙」を学んで
教会によってはヤコブの手紙(ヤコブ書)を活用しているかいないかは分かりませんが、自分でもこの新約聖書を見てもキツイ内容だと思います。しかし、家庭集会を開いて下さっている米国宣教師の分かりやすい説明によって、クリスチャンたちの信仰の歩み方の違いを初めて理解しました。
「ヤコブの手紙」を書いた人は本当は誰なのか?
まず、「ヤコブの手紙」一章一節から著者自らの名を称しています。
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。
手紙の著者ですが、新約聖書に限ってヤコブなる人物が複数現れるのですが、その中で手紙を書いたと考えれる人物が三人いるようです。
- 義人のヤコブ・・・パウロが「ガラテヤ人への手紙」で”主の兄弟ヤコブ(1:19)”、”教会での三人の一人(2:9)”という十二使徒に含まれていない人物。
- アルファイの子ヤコブ・・・「マルコの福音書」十五章四十節に登場する”小ヤコブ”ではないかは定かではない。
- 十二使徒の大ヤコブ・・・使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子。ただ、ヤコブの殉教は紀元44年頃と推定され、手紙の著者であるかどうかは考えにくいとされる。
しかし、現代の研究者たちの多くは「ヤコブ」というのは文書に権威を持たせるためのものであり、三人のヤコブの誰かが著者だとは考えておらず、実際の著者は分かっていません。
ただ、 ヤコブはおそらく新約聖書の中でも一番古い書物で、西暦50年に起こったエルサレム会議の前、西暦45年頃に書かれただろうと言われています。歴史学者フラウィウス・ヨセフスによるとヤコブは西暦62年頃に殉教したと言われています。
「ヤコブの手紙」を避ける理由
宗教改革者であるマルティン・ルターは、「ヨハネの黙示録」ともに「ヤコブの手紙(ヤコブ書)」を”藁の書簡”と読んで正典から除外しようとしていました。元々初代教会の時代、「ヤコブの手紙」の正統性に疑問を持つ者が少なからずいたので、準正典扱いだったようです。
「ヤコブの手紙」は教会のの中で正典として受け入れるまでに非常に長くかかりました。その理由として考えられるのは、内容が主にユダヤ人キリスト教徒に向けられたものだったということにあると考えられたのです。
あるいは「ヤコブの手紙」はパウロの信仰の教えを乱用した者たちに書かれた節もあるようです。この様なキリストにある信仰によって旧約の律法、戒律主義、法律や社会的道徳から解放されるという極端な教えを無律法主義(antinomianism)といいます。
パウロの教えとヤコブの教えの違い
主を求める信仰・歩みは人それぞれだと思います。新約聖書の中で、まずパウロの教えは「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による(ローマ3:28)」と語っています。これに対して、ヤコブの教えは「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないこと(ヤコブ2:24)」と語り、さらに「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」と語っています。
信仰と行いの矛盾により、パウロとヤコブの教えが同じでないと考えてしまうのですが、聖書を注意深く学ぶことによって決して違いはないことが分かってきます。行いを強調するヤコブに対し、信仰を強調するパウロも後から「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」と語っているので、両者の教えには大差がないことが見えてきます。
「ヤコブの手紙」一章と二章で学んだポイント、感じたこと
この頃、家庭集会では「ヤコブの手紙」を一章ずつ学び始めているところです。まず、出席者の間で順番に聖書を読み、各自でもう一度黙読します。次に、今回の聖書を読んだ要約何か、神様は何を語っているか、日常へ活用すべきことを各自で考えて、一人ずつ答えて分かち合います。
今、「ヤコブの手紙」では一章と二章を学びました。まず、一章を読むと、いきなり二節から厳しい言葉が書いてあります。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(1:2)
クリスチャンでも試練を喜びに思える人は果たしてどうなのでしょう。自分自身も喜びとかよりも、すでに忍耐がまだまだ足りていないことに気付いています。しかし、四節では試練の忍耐についてこう言っています。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(1:4)
「忍耐を働かせる」とは、なかなかキツイものがあります。怪我や病気、家庭、職場、人間関係、迫害などのあらゆる試練をどう向き合って乗り越えるかだと思います。試練は大胆に言い換えれば、人の思い通りにならないこと。しかし、神様は人とは望んでいるものが違うということになります。だから、試練に合うと「神様、何故ですか?どうしてですか?」と自然に叫んでしまいます。この時、神様のなさることは私たちには全く分かりません。しかし、神様は実の父親のように全ての人を愛しているからこそ、より良い人生を送ることが出来るように、その人に合った試練を与えて訓練して下さっていることだと思います。
十二節には、試練に耐える人についてこう記しています。
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)
神様を愛する人は自己を捨てたり、自分を低くすることによって高くされることもこの一章で学ばせていただきました。試練も自分の思いからくるものなら、十四節の誘惑も自分の欲からくるものです。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。(ヤコブ1:14)
続いて、二章で学んだポイントは「人をえこひいきしてはいけません。(ヤコブ2:1)」です。
あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみずぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。(ヤコブ2:2-5)
えこひいきや差別はどこにでもあります。特に学校や社会もそうですが、残念なことに実は教会でもあります。クリスチャンなら、教会に初めて出席する新来者の接し方について今までどうしていたか?もう一度見直す必要があるかもしれません。人は誰でも好き嫌いあるし、気の合う人と合わない人も確かにいます。現代の教会出席者で、割と経済的に余裕のあるクリスチャンもいれば、生活が苦しいクリスチャンもいらっしゃるでしょう。でも、神様の視点からすればみな平等であることです。だから、ちょっとの差別や貧しい人を軽蔑しないように聖書の律法を歩みたいところです。
もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。(ヤコブ2:8)
「あなたの隣人を愛せよ」と命じつつ、「人をえこひいきするなら、あながたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます(ヤコブ2:9)」と厳しい御言葉で教えています。自分より弱い人や貧しい人を助けたり、支えることも愛ではないでしょうか。自分も日頃、言葉と行いを見つめ直すこと、隣人に愛を示すことが出来るよう祈り求めていきたいです。
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